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利と理 

利と理

偽善者というのは、
自分の利益と自分自身を正当化する理屈をかがけ、
暴力や暴言をしたがるものだ。
多くものものは、表面的に見、
相手の言葉を鵜呑みにしてしまう。
ただ、思考や感情に自己同化してしまう。
多くのものは、相手の非本質性をだだ、
流されるまま他者の言葉に感情移入をしてしまう。
自分自身の理性と客観的思考に伴い、
判断するようにならなければならない。
私という存在という認識へと至るようにすることが、
客観的思考へと至る道なのである。

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今更、女を口説くより 

今更、女を口説くより、紹介してもらったほうがいいと思うが、
学生時代の交友関係が少ないため、知り合いを通じてのも無理だ。
しかし、私もある程度、妥協するにしてもだ。
可もなく、不可もなく、まあ、平均点ぐらいあればよい。
微妙な場合を除いて。
たいして、好きでもない相手と付き合うようにしたほうがいいのだろうか?
とにかく、日本人女性は付き合う過程までがめんどくさすぎる。
しかも、三十路前後はさらにめんどくさいからな。
ただ、楽しければいいとか、
好きになった人じゃないといけないとか”子供か”。
精神面が幼い傾向がある、今の日本人は。
正直言って、三十歳過ぎて、のぼせ(いちゃいちゃ)はしないと思う。
多分、結構冷めた感じて付き合うだろうけど。
女性はよほど、美人じゃないと、三十路前後はみんな、
付き合うにしても結構冷めてるじゃないか?
せめて、独身は40歳から50歳以上が望ましかった。
そのまえに、異性関係を作るべきだった。
基本的に異性関係というのは、女が中心である。
そのため、問題点は、好きになったから口説くのではない、
のぼせを誘導できるように
対象の女性の思考を指定できるように訓練しなければならない。
古代から、そうだが女遊びでモテル男がいるが、
それは、女性は感情でしか物事を判断できないからだ。
日本人女性でよくうまくいかなかったら、
うまくいかなかったら、
別れるとか、
失敗したらダメなのですか?
愛というのは、いちゃいちゃしたいだけか?
付き合うということは、
完全無的な男性じゃないといけないのか?
縁結びの神様というのがいるが、良縁を結びつけようとしても、
のぼせしかできない女性は永遠に良縁は作れないだろう。
まあ、とは言え、私は女性と接触する機会などほぼない。
独身女性を見つけるにはどうしたよいのか?
結局の所、金がかかる。
もう、あきらめよう。



彼は老人になっても独身生活を続け、
孤独死を迎えるだけであった。
BADEND・・・・・・・・・・




彼女になった女性の過去の異性関係を知りたがる男性の心理 

<彼女になった女性の過去の異性関係を知りたがる男性の心理は、
男はほかの男の遺伝子を嫌う。
性行為はアストラル体まで影響している。
雑種や下賎のアストラル体なら関係を及ばないほうがいい。
まあ、今の日本の男女は汚れているから、
次の人生なんてないだろうけど、
アストラル体を浄化するなら異性関係を絶ち、独身状態を維持することだろうな。
雑種や下賎はどちらにしろ無理だろうけど。
旦那が奥さんだけならいいけだろうけど。
くくくくくくく。

女性はロクでもない男を好きになるのだ。  


G戦場の魔王


女性は感情による、のぼせで男性を好きになる。
異性と複数付き合っことがある男性は、女性の扱いがうまいのだ。
紳士であるとか、誠実だとか、まじめとかは関係がない。
ロマンチックという言葉があるが、・・・・
ようは、”熱”となれる男性を好むのだ。
ただ、何を悦とするか好みがまた変わってくるが、
その日常の中での生活の変化というべきなのだろうか、
相手に求めているのは、ドライブだとか、
音楽だとか、かっこいい部類と認識できる男を好きになる。

だから、女性はロクでもない男を好きになるのだ。

恋愛したければ、指定すればよい。
女性に相手の本質など見抜けない。
なぜならば、感情でしか物事を見ようとしない。
適当に相槌を打ち、
かっこいい部類と認識できるに話を合わせればよいのだ。
嘘ではないが、本当でもない話させすればよい。
ドライブが好きというならば、
車やバイクを乗っていて、
そのように相槌を打てばよい。
たとえ、オタク的な趣味があったとしても、隠しておけ。
女性は、真実などどうでもいい。
ただ、その場で”熱”がでればよいからだ。
女を食うまで、真実を隠しておけ。
”食う”までが大変なのだ。

まあ、私は雑種は興味がないがな。
雑種は雑種同士群れあっとけばよかろう。



物事を相対的に見る 

物事を相対的に見るということは、
善悪二次元論的に対象を客観的に見、
比較検証し判断するということだが、
これは自分自身が在ることにより、意味がなしてくる。
正しく物事を相対的に見るというこいとは、
自分自身を客観視する必要があるということだ。
思考や価値判断の基準は指針が存在しないのだが、
親や教師が教えてくれるわけではない。
私たちは非本質的な生き方を強いられるようになる。
非本質的なまま生きかたをすると、
他者との比較における優越感を得るための生き方をしようとする。
虚栄心、見栄等の自己愛における利己的な動機によるものかもしれない。
だから、自分自身が存在していないと、
なにを基準に判断するようにしたらいいか、
それがわからなくなってしまう。
自分自身の本質を知らないものが、
客観的に見ることはできない。

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