バグワン・シュリ・ラジニーシについて 

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バグワン・シュリ・ラジニーシは、
霊能力を持っていたがそれをあまり語ることはなかった。
弟子を霊視したりしていたのだが、
あまり、弟子に恵まれなかったみたい。
ラジニーシは抽象的、詩的すぎるという話だが、
この人の講和は、あきらかに第5身体のこと思えることを話をしているので、
わかる人にはわかると思えるが・・・・。
アートマン(第六身体)は、禅のみが役に立つと言っているが、
第五身体以下で使うと、有害となると言っている。
禅は、坐禅なんかが有名だが・・・・
無我だのといったのは、
私いう自我意識体が消えていったときのものであろう。
第五身体スピチュアル体が複数の私の統合としたら、
第六身体アートマン体が自我の消滅。
おそらく・・・座禅は、
死人の肉体を燃える中を凝視したり、
闇と一体化する技法が含まれていたと思える。
私には、達磨大師の教えが形骸化したとしか思えん。
光と闇の瞑想―ヴィギャン・バイラヴ・タントラ 和尚講話録 (タントラ秘法の書)の
瞑想は、 第六身体アートマン体の話と思えるが・・・。

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観照 

和尚ラジニ-シは次のことを言っている。

グルジェフが生涯をかけて自己想起の手法に働きかけたのは、西洋に観照を紹介することはほとんど不可能と思われたからだ。というのも、西洋は内省で生きてきたからだ。キリスト教の修道院はすべて、内省を教えてきた。グルジェフは内省を超えたあるものを紹介した。彼はそれを自己想起と呼んだのだ。彼はつねに観照を紹介することを考えていたが、彼にそれができなかったのは、観照は自己想起が定着して初めて紹介できるものだからだ。

それ以前に観照を紹介することはできない。自己想起が成熟する以前にそれについて語っても、どこにも行き着けない。それは無用の業になってしまう。彼は長いこと待ったが、それを紹介することはできなかった。
東洋で私たちは、その両方を使ってきた。実際は、私たちは三つを全部使ってきた。内省は非常にありふれた宗教的人びと、深く進みたくない人たちのためのものだった。深く進みたい人たちのためには、自己想起だ。そして深みのなかで消失するほどに深く進みたい人たちのためには、観照だ。

「見ていること」が最後のものだ。それを超えては、何ひとつ存在しない。目撃者の目撃者になることはできない。なぜならそれもまた見ていることだからだ。だから見ていることを超えて進むことはできない。究極の終わりに到達したのだ。世界の最後は「見ていること」だ。内省から自己想起に進みなさい。そして自己想起から、いつか見ていることに移ることを望みなさい。ただ自己想起がゴールではないことを心にとめておくといい。それは単なる橋としてはいいものだが、人はそれを渡らなければならない。それを超えて行かなければならないのだ。

抜粋終わり

自己を観察する技法が多いが、
対象を観察する技法のほうがとても重要と思われる。
自己分析、自己観察の類が一般的に普及しているが、
これでは、洞察する力が養われないのであまり重要度は低い。
ちなみに、グルジェフの自己想起は精神分裂病を生み出す危険がある。
これは、第一身体から第四身体が発達、調和してないためである。
自己想起はおすすめできない。
これは、第五身体へと進むためのものであり、
複数の「私」を見る技法と思われるが、
バグワンは上方で見るのは辞めろと述べている。
上方というのは、第五身体以上の技法と思われるが有害になると言っている。
観照は、植物、動物、人間、あらゆるものを観照する技法のほうが良いと思う。

怒りのワーク 

oshoは怒りのワークというのをしていたそうだが、

どのようにしていたのかは不明だが、

怒り、哀れみ、悲しみ、喜び・・・など、

13の感情をひとつずつ意識的にたっぷり味わい

表現して外にしっかり出し、解放する・・・というのを繰り返しやって、

狂気を発散させて

怒り狂うようなワークをやる。

クッションを壁や床に力任せに思いっきりぶつけ、

のた打ち回ってガンガン狂う。

思考と自己同化しない 

OSHO:「第三の目の瞑想」~ 思考と自己同化しない

目を閉じて、眉間のちょうどまん中に両目の焦点を合わせなさい。


閉じた目で、そこを見ているかのように。


全一な注意を、そのことに注ぎなさい。

正しいポイントに来ると、突然、両目は固定されるだろう。


そして注意がそこにあれば、あなたは奇妙な体験をする。


生まれてはじめて、思考が自分の前を走り回っているのがわかる。


あなたは観照者となる。


それはまるで映画のスクリーンのようだ。


思考が駆け巡り、あなたはその観照者だ。

... 普段、あなたは観照者ではない。


あなたは思考と同化している。もし怒りがそこにあったら、あなたは怒りになる。


もしある思考が動いていたら、あなたは観照者ではなくなる。


思考とひとつになり、自己同一化し、あなたはそれとともに動くだろう。


あなたはその思考になり、その思考の形態をとってしまう。


セックスしているとセックスになり、怒っている時には怒りになり


強欲がある時には強欲になる。


あなたは、漂っているいかなる思考とも同一化する。


あなたと思考の間には、どんな隙間もない。

しかし、「第三の目」に焦点をあわせる時、突然あなたは観照者になる。


「第三の目」を通すと、空を流れる雲や


通りを往き交う人々を観るように、あなたは思考を観ることができる。

Osho Excerpted from The Book of Secrets

バグワン・シュリ・ラジニーシの講話集 

ほんとうの問題は
知性の使いすぎではなく、
感情を使わないことだ。

感情は私たちの文明では
完全に無視されているので、
... バランスが失われ、
片寄った人格が発達する。
感情もまた使われたなら、
アンバランスにはならない。

感情と知性のバランスが
適正な比率で
維持されなければならない。

そうでないと
人格全体が病的になる。
それは片足しか使わないようなものだ。
それを使いつづけたとしても、
あなたはどこにも行き着かない。
自分を疲れさせるだけだ。
もう一方の足も使わなければならない。
感情と知性は二つの翼のようだ。
一方の翼だけを使ったら、
失望しか生まれてこない。
そのときには両方の翼を同時に、
バランスよく、
調和的に使うことから生じる至福は
けっして実現されない。

Osho - The Great Challengeより