瞑想の解釈 

瞑想の解釈が違うのは、
瞑想の種類によって、変わってくる。
呼吸法は、ハタヨーガ。
シュタイナーの瞑想がラージャヨーガにあたると思われる。
超感覚的認識を目的としているなら、思考を純化しなければならない。
まず、第一の自己を安定化するには、思考を明晰化しなければならない。


自我は思考に属する。

思考を高次の思考センターに連結することで、
高次の自我へと導きやすいからだ。
瞑想の多くが、観照、無思考を目的としているが、
これの言っている意味の点は、
思考と同化しないことを言っている。
矛盾しているようだが、


無思考とは、非言語化のことを指すと思われる。

言語化できないほうが、物事の知覚がそれまでとは比べもの
にならないほど明瞭になったり、自分の頭を通り過ぎるいろいろな
印象や雑念に対して客観的に敏感になってくるものだ。


思考と自己同化しない

だが、大悟といかないのは、第二の自己を覚醒する前に、
禅などは自己満足へと陥る。
このことを和尚はスピチュアル体を超える前に、禅をやってはいけないと名言している。


そういえば、和尚によると瞑想とは意識のある無思考と述べている。

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第二の自我 

第二の自我が生まれるときに、私という自我の外に感じる。
第二の自我の第二段階めと進むときに、低次の私に自己愛が感じる。
この時に、浄化へと進むのが大悟(光明)へと導く。

私は、
お茶を飲むときに、
歩いてるときに、
お風呂に入っているときに、
私とは誰かという技法で、光明へと導いた。

無意識と意識の二つの狭間の認識を得るのが覚醒者である。
だが、私とは誰かという技法だけでは、たらない。
これ以前に、絶え間ない環境の変化による、自己同化を防いだので、
数ヶ月で、光明へといたった。

私の場合、瞑想とは禅的な瞑想である。
座禅の類の姿勢はしない、
瞑想の多くは、座禅のイメージがあるが、本来は、

お茶を飲むときに、
歩いてるときに、
お風呂に入っているときに、

ときの自然な状態でのが禅なのであろう。

補足をすると、基盤に、自我の何たるかを研究(思考)することも関係していると思われる。

ラマナ・マハルシ 

私が独自で編み出してやっていた技法
がすでに編み出されたいた・・・・・。

ラマナ・マハルシとかいう爺さんの瞑想の技法。


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名前だけ知っていたが、案外おんなじことを考えるやつている。
常に”私とは誰か”て想起していたんだけど。
これやっていたら、変性意識状態の意味がわかった。
グルジェフの言う自己想起と似ているが、
多分、精神分裂病になるのではなく、
私が統合されてないから、分裂病と思ってしまう思われる。
観照者が観照される状態になって、この技法は初めて、花を開くと思われる。

シュタイナーによる瞑想方法 

花の種を観ながらその成長過程を思考する。
ある植物がどのように地に根づき、どのように葉が出ていくか、どのように花が開くかを表象する。
鉛筆を観ながらその形成過程を思考する。
石を観ながらここに至るまでの過程を思考する。

瞑想について 

瞑想は本当に人格的に優れた無私の人間について習う場合以外は、
ある一種の危険性を含んでいる。

ジッドゥ・クリシュナムルティは次のことを言っている。
全ての瞑想は無意味である
全てのメソッドは無意味である。
いわゆる瞑想にも全く意味はない。
方法などなにも存在しない。
あなたがやるべきこと、それはただ観ることだけだ。

バグワン・シュリ・ラジニーシは次のことを言っている。
私はクリシュナムルティが正しいことを知っている。
しかしそれはあなた方には役に立たない。
あなた方はただ観るということができなので、方法が必要だ。
そのために私は方便として様々な瞑想法を考案した。