観照 

和尚ラジニ-シは次のことを言っている。

グルジェフが生涯をかけて自己想起の手法に働きかけたのは、西洋に観照を紹介することはほとんど不可能と思われたからだ。というのも、西洋は内省で生きてきたからだ。キリスト教の修道院はすべて、内省を教えてきた。グルジェフは内省を超えたあるものを紹介した。彼はそれを自己想起と呼んだのだ。彼はつねに観照を紹介することを考えていたが、彼にそれができなかったのは、観照は自己想起が定着して初めて紹介できるものだからだ。

それ以前に観照を紹介することはできない。自己想起が成熟する以前にそれについて語っても、どこにも行き着けない。それは無用の業になってしまう。彼は長いこと待ったが、それを紹介することはできなかった。
東洋で私たちは、その両方を使ってきた。実際は、私たちは三つを全部使ってきた。内省は非常にありふれた宗教的人びと、深く進みたくない人たちのためのものだった。深く進みたい人たちのためには、自己想起だ。そして深みのなかで消失するほどに深く進みたい人たちのためには、観照だ。

「見ていること」が最後のものだ。それを超えては、何ひとつ存在しない。目撃者の目撃者になることはできない。なぜならそれもまた見ていることだからだ。だから見ていることを超えて進むことはできない。究極の終わりに到達したのだ。世界の最後は「見ていること」だ。内省から自己想起に進みなさい。そして自己想起から、いつか見ていることに移ることを望みなさい。ただ自己想起がゴールではないことを心にとめておくといい。それは単なる橋としてはいいものだが、人はそれを渡らなければならない。それを超えて行かなければならないのだ。

抜粋終わり

自己を観察する技法が多いが、
対象を観察する技法のほうがとても重要と思われる。
自己分析、自己観察の類が一般的に普及しているが、
これでは、洞察する力が養われないのであまり重要度は低い。
ちなみに、グルジェフの自己想起は精神分裂病を生み出す危険がある。
これは、第一身体から第四身体が発達、調和してないためである。
自己想起はおすすめできない。
これは、第五身体へと進むためのものであり、
複数の「私」を見る技法と思われるが、
バグワンは上方で見るのは辞めろと述べている。
上方というのは、第五身体以上の技法と思われるが有害になると言っている。
観照は、植物、動物、人間、あらゆるものを観照する技法のほうが良いと思う。

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