生は私が存在して初めて真実となる 

通常、人類とは理性はない。
つまり、己自身にたいして律するということがないのである。
人は自らの思考を見ることはない。
人間とは理性ある生き物だろうか?
これにたいして、私の言えることは否と答えるであろう。
人は、自らのことを知らないからである。
アーリオーンがなぜ、対象を見ることで始まるといった点。
これは、客観的に見るということだ。
客観的に見るということはどういうことであろうか?
それは、それは語り手としての
考えを述べた上で、自己の考え、
つまり、この主観を通して、
客観的にものごとを考えると誤解して考えるふちがあると、私は思う。
そこには、主観が交わっている。
主観とは、自己だけの考えのことを言っている。
では、客観的とはどういうことだ。
これは、第三者としての考えのことだ。
対象を見ると、自己の考えを述べる上での観的に表現するからだ。
では、客観も主観に内包された思考である上、
たんなる認識上の定義しかほかならないと思われる。
クリムシュナリティは言った。
自己と対象の自己想起を述べたのが、
客観的に見る上で、自らの思考を洞察することにつながるのであろう。
親の前にしての私か?
恋人の前にしての私か?
私を認識をしていたら、私が存在していないことに気が付く。

”生は私が存在して初めて真実となる”

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コメント

一体であるという認識

結局のところ、現世でもがく私のような凡夫には、推察するより無いのですが、このように考えます。
自己を他を排する意味での自己とした場合、真に観測し、分析する能力を失う気がします。自己はこの精妙な宇宙の一部として存在していますが、肉体的感覚に囚われなければ、自己は他を含み、宇宙と同一な規模まで拡張できるのではないでしょうか。
ご健勝をお祈り申し上げます。

Re: 一体であるという認識

> 結局のところ、現世でもがく私のような凡夫には、推察するより無いのですが、このように考えます。
> 自己を他を排する意味での自己とした場合、真に観測し、分析する能力を失う気がします。自己はこの精妙な宇宙の一部として存在していますが、肉体的感覚に囚われなければ、自己は他を含み、宇宙と同一な規模まで拡張できるのではないでしょうか。
> ご健勝をお祈り申し上げます。

これ、シュタイナーの本読み返していたら、載っていました。
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するかという本ですけど、
客観性のことを考えていたら、なんとなく思いついたのですけど、
言語によるもので、どうやって伝えたらいいのかなかなか大変で、
意味がなんとなく、わかってくれる人がいてよかった。

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