聖徳太子の家系がわかった 

クナトノ大神

オオクニヌシ

2代目卑弥呼・台与(トヨ)

ナガスネヒコ

聖徳太子

聖徳太子の名前は厩戸豊聡耳皇子(うまやとのトヨとみみのみこ)


聖徳太子は豊受大神の系統であり、
おそらく台与が神武天皇(イワレヒコ)の本当の母親と思われる。

富家の伝承によると

※この世界が一夜にして氷の山になった。
大祖先のクナトの大神は、その難を避けるため、
一族を引き連れて移動を始めた。
東の彼方から氷の山を越え、海沿いを歩いた。
そうして何代もかかってようやくたどりついたのが出雲の地であった。
(今から四000年も前のことである)

※クナトノ大神は、いろいろな知識を持ち、
前からこの地に住んでいた人々に、
鉄の採り方や布の織り方、農耕の方法などを教えた。
糸は、麻・綿、はたの木から作り、これをクリやシイの実で染めた。
出雲人に戦いの歴史はなかった。
人々は生活を良くしてあげることで、自然についてきた。
クナトノ大神は、王に推された。

※習俗と祭祀<神在月につながる慣わし>
首長は「カミ」と呼ばれた。
毎年十月に各国(各地)のカミが出雲に集まって、
その年の収穫物の分配について話し合った。
多い国は少ない国に分け与えた。
この時、我々は祖国を偲んで
竜蛇(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしであった。
【これが現在の神在月につながる。
各国のカミがいなくなるので出雲以外では神無月と言うのである】
我々は、祖国を高天原と呼ぶがこれは遠い海の彼方だと伝えている。

※神武の侵攻
ホヒ族とは、次第にうまくいくようになったが、
今度は神武が九州から攻めて来た。
勢力を回復していた我々は穴門(長門)で迎え撃った。
神武は、防府、河内、熊野などで6人死んだが七人目の神武は強かった。
我々は「カラの子」と呼んでいた。
朝鮮からのヤタガラスが神武の味方にについた。
彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。
まことに陰険であり、残酷であった。
王のトミノナガスネ彦は傷つき、大和を神武にゆずって出雲は退いた。
王は出雲で亡くなった。
神武は橿原(かしはら)で即位し大和の王となった。
出雲人は、大和。出雲、北陸、関東、東北などに分散された。
神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。
我々の反乱を防ぐためでもあった。
縄文時代も終りのことである。

富氏の大祖先はクナトの大首長(大神)だが、
もう一つ隠された女首長(女神)にアラハバキがいた。

そして、体制側によってクナトとアラハバキが抹殺されかけたときに、
クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天へと変化したというものだ。


評価していただけるなら拍手の方をお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ

にほんブログ村

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://seisinnnoyakata.blog102.fc2.com/tb.php/500-ce8fd612