教育について 

内海康満氏は次のことを言っている。

日本人は無宗教の人が多い一方で、
教育を受けていない人はほとんどいない。
その意味では、宗教よりも教育のほうが
中真感覚の発露を阻害する要因としては大きいと言える。
学校の授業は、文字通り「業(ごう)」を「授ける」ものである。
仙骨の中に秘められている本来の力を出すための教育ではなく、
頭で考え、頭で判断する生き方へと人々を導いていく。
こうして人は業を作っていく人生を歩んでいくのである。

頭で判断することは、基本的に中真から外れるようになっており、
それが業を作るのだ。
現代教育は「染脳教育」と言うことができる。
「洗脳」ではなく「染脳」と書いたのは、
学校教育はすべての人間を同じ色に染めるからである。

脳を洗って余計なものをぬぐい去るなら、
仙骨から来る波動を素直に受け入れられる脳――
すなわち「素脳」になれるのだが、
逆に素脳を一定の色に染めてしまうのが現代教育である。
特に悪いのは、「前へならえ」という号令に象徴されるものだ。
個人が持っている中真感覚に目を向けさせないようにし、
前の人や周りの人間に中真を置くように導いていく。

たとえば、子供がちょっとした悪さをすると、
教師が「周りの人に迷惑がかかるでしょ」と押さえつけることがあるが、
これは他人に中真を置くような考え方を植え付けていることになる。
中真感覚が働いている子供は、そういう注意の仕方に反発したくなるのだ。
本来であれば、悪さをして人に迷惑をかけ、
それによって周りから嫌われるなどして自分自身が
不自由になってしまうことがわかれば、子供は悪さをしなくなるのである。
自己を中真に置いた考え方なら子供も素直に受け入れられるのだが、
周りを中真にした教育をすることでおかしくなってしまうのである。

教師に反発しない子供は、「前へならえ」「周りに見習え」と、
周りを中真に置いた考え方を植え付けられ、
コントロールしやすい人間に仕立て上げられてしまう。
下級生は上級生を見習い、上級生は先生を見習い、先生は校長を、
校長は教育委員会を、教育委員会は文部科学省を見習う。
ということは、文部科学省が中真からズレてしまうと、
日本中の子供たちが中真からズレてしまうということになる。

文部科学省がいいとか悪いとかという話ではない。
戦前と戦後の教育を比較してみればわかるように、
学校教育はそのときどきの価値観でコロコロと内容が変わるものである。
また、そもそも人間の本質を理解していない教育である。
そういう不確実なものを中真に置いて子供たちを染脳していくことが、
人間が本来持っている力の発現を阻害してしまうのである。
私が現代教育に毒されていないのは、
学校の授業をほとんど聞いていなかったからだ。
少しその話をしよう。

は小学生の頃から「こんなものを頭に入れていたらバカになる」
ということがわかっていたので、授業中はいつも外を見ていた。
私の机にはよく白いチョークが飛んできたものである。
授業を聞いていないから当然テストはほとんど○点だったが、
あるとき、「内海君は頭の良さそうな顔をしているのに、
なぜ勉強ができないんだ」と教師に揶揄され、
それではということで本気になって、
テスト前に一夜漬けの勉強というものを初めてやってみたのだった。
テスト時間の直前に予想問題と答えをすべて黒板に書いておいた。
教師に叱られたが、それがことごとく当たっていた。当然、満点である。

機械的に頭に記憶すれば100点、頭に入れなければ○点。
子供ながらに、学校の勉強というものが
そんな単純な計算で成り立っていることを識っていた。
自分本来のものを出すのではなく、
詰め込んだものだけを評価する勉強など人生にとっては
何の意味もなさず何の価値もないものだと識っていたのである。
その程度のものには全く興味が湧かなかったから、
その後もテストでは何も書かずに○点を取っていた。
答案用紙の裏に「手も足も出ない」とダルマの絵を描いて出したこともある。
「内海君、ずいぶん古い手を使うね」と、教師は苦笑いしていた。
教師にとっては問題児だったかもしれない。

あるとき、知能テストでトップを取ったら、
教師はカンニングしたのではないかと疑った。
教え子を疑う教師に子供を教えられるわけがない。
意味のない勉強を教えることはできても、
少なくとも人間としての生き方は教えられないのである。
中学を終えるころ、高校には進学しないと親に言った。
理由を問われたので、「自分に教えられる教師はいるか」と逆に聞いたら、
「そりゃあ、たしかにいないだろうな」と親も納得したものの、
せめて高校ぐらいは行ってほしいというので私も自分なりに考え、
電気関係の仕事をしながらしばらく夜間高校に通った。

相変わらず授業は聞いていなかったが、
教師の顔を見ていると、こんなことをよく言われた。
「内海君、キミのその目で見つめられてしまうと、
何か見透かされているような気持ちになる。
授業がやりにくいから寝ててくれないか」
こんな具合で、結局、
私は学校教育というものをまともに受けたことがないのだ。
だからこそ、まともなことが言えるのである。

学校の勉強こそしなかったものの、
自分が必要だと思えば図書館に行って調べたりした。
自分に必要なものは自分で得ようとする。
本来、人間とはそういうものなのである。
私が、人間の体や病気の真実について語り、人生の真実について語り、
男女の真実について語り、地球や宇宙の真実について語ると、
よくこう聞かれる。
「どうしてそんなことを識っているのですか。誰に学んだのですか」

しかし、私は誰に教えてもらったわけでもない。
自分自身が大宇宙の意識と一体であり、
創造と智慧の根源に繋がっているがゆえに、
自然と全てが分かってしまうのである。
つまり、人間は本来持っている中真感覚を開くことで、
絶対的な神なる叡智が発動するということだ。

したがって、中真感覚が働くような教育こそが、
本来求められるべきものなのである。それが人間の本質だからだ。
大量の知識を詰め込んで頭のいい人間になりたいという人は多いが、
知識を詰め込み、頭脳に頼る人間になると、
本来の自分らしい生き方はできない。
なぜなら、頭脳で考え、頭脳で判断するようになると、
人間は自己保全だけを考え、損得で生きるようになるからだ。
優秀な頭脳を持っている官僚たちを見れば分かるだろう。
天下り先をたくさん作り、自分たちだけ得をするような生き方をしている。

もっとも、人生はそんなに甘いものではない。
得をしたと思っても、いずれ本当の自分が中真に引き戻すことになる。
その時の苦しみの大きさは人それぞれだが、
中真感覚から大きくズレている人ほど苦しみが大きい。
「肩を落とす」といった程度のものではないことは確かである。
官僚を例に挙げたが、
この話は同じような生き方をしているすべての人に言えることである。
中真感覚の発露を阻害する外的要因として宗教と教育を挙げたが、
両者に共通する概念も阻害要因として大きなものだと言わざるを得ない。
それは「善悪」というものである。


現在の教育は特定の集団を維持するために作った規律を作っている。
そうして、自らと同じ色のついた世界を作ろうとしている。
ようはコントロールしやすい”羊”の大衆を作り出そうとしているのだ。
知識重点で教育された人間はものごとを思考(理屈)
でしか考えられないようになってしまう。


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