五六七の大神、六六六の大神 

伊都能売神諭 
この地の世界の初りは世界一体に泥海で在つて、
光りも温《ぬく》みも何ものもなかりたぞよ。
丁度譬へて日へば朧月夜の二三層倍も暗い冷たい世界で、
山も河も草木も何一種《なにひといろ》なかつたので在るぞよ。
其泥の世界に身の丈けは五百丈ばかり、
身の太さは三百丈程も在る蛇体の荒神が住居して居られたのが、
御精神の良い大神様の前身で、
是が五六七の大神様と御成り遊ばしたので在るぞよ。
誠に長閑やかな御神姿で、鱗は一枚もなし、角も一本もなし、
体の色は青水晶のやうな立派な神様で、天地の元の祖神と成られたので在るぞよ。
斯世を創造して、天地を開く事に非常に苦心遊ばしましたのが、
此の大神様が第一番で、ミロクの大神ともツキの大神とも申上げる御神様であるぞよ。
世界を造るに就て非常に独神で御心配遊ばして御座る所へ、
同じく似たやうな御神姿の大蛇神が現はれたが、
此の神には十六本の頭に角が生えて、
其角の先から大変な光りが現はれて居る神様に、
五六七の大神様が世界創造の御相談をお掛けになつたので在るぞよ。
扨《さ》て其時の六六六の大神様の御言葉には、
何時まで斯うして泥の世界の暗い所に住居を致して居つても、
何一つの楽みもなし、何の功能もなし、沢山の眷属も在る事なり。
何とか致して立派な天地を造り上げ、
万の眷属の楽しく暮すやうに致したいのが、
我の大望で在るが、
其方様は我の片腕となりて天地を立別け、
美はしき地上の世界を造る御心は有りませぬかと御尋ね遊ばしたら、
日の大神の前身なる頭に十六本の光る角を生やした大蛇神様が御答には、
我身は女体の事なり、且つ又た斯んな業の深い見苦しき姿で在りますから、
貴神様の如うな御精神の良い、立派な神様の片腕に成ると云ふ事は、
恐れ入りて御言葉に従ふ事が出来ませぬと、
大変に嫌だつて御辞退を遊ばしたなれど、
六六六の大神様が強いて御頼みに成り我の片腕に成るのは
其方様《そなたさま》より外にない、我が見込んで居るからとの仰せに、
日の大神様も左様なれば御本望の遂ぐるまで我身の力一杯活動いたして見ます、
去る代りに天地が立派に出来上りましたら、
我を末代貴神様の女房役と致して下され私は
女房役となりて万古末代世界を照しますとの御約束が
地の高天原の竜宮舘で結ばれたので在りたぞよ。
其所《そこ》へ艮の金神の前身国常立尊の荒神が現ばれて、
世界を造り遊ばす御手伝を命《さ》して下されと御願申上げたので在りたぞよ。
そこで六六六《みろく》の大神様が早速に御承知被下て仰せ遊ばすには、
其方は見掛に由らぬ誠忠無比の神であるから世界の一切を委すから、
落度のなきやうに致すが良かろうと仰せられ、
其上に国常立之命に思兼《おもひやり》の神と申す御名を下され、
八百万の神様を天の山河澄《やす》の川原に集めて
一人の眷属も残さず相談の中間え入れて大集会を遊ばしたので
地の在る限りに住居《すまゐ》いたして
居れる蛇体《じやたい》の神々様が集り合ふて御協議の上、
六六六様《みろくさま》の仰せの通りに
国常立之命を総体の局《つぼね》に選み下さりたのであるぞよ。


伊都能売神諭
大国常立之尊の元の誠の姿は頭に八本角の生えた鬼神の姿で、
皆の神々が余り恐ろしいと申して寄り附かぬやうに致した位いの姿で在るから、
今の人民に元の真の姿を見せたら、震い上りて眼を廻すぞよ。

霊界物語
最上天界すなはち高天原には、
宇宙の造物主なる大国常立大神が、
天地万有一切の総統権を具足して神臨したまふのであります。
そして、大国常立大神の一の御名を、天之御中主大神と称へ奉り、
無限絶対の神格を持し、霊力体の大原霊と現はれたまふのであります。
この大神の御神徳の、完全に発揮されたのを天照皇大御神と称へ奉るのであります。
 そして霊の元祖たる高皇産霊大神は、一名神伊邪那岐大神、
またの名は、日の大神と称へ奉り、体の元祖神皇産霊大神は、
一名神伊邪那美大神、またの名は、月の大神と称へ奉るのは、
この物語にてしばしば述べられてある通りであります。
また高皇産霊大神は霊系にして、
厳の御霊国常立大神と現はれたまひ体系の祖神なる神皇産霊大神は、
瑞の御魂豊国主大神と現はれたまうたのであります。


伊都能売神諭から推測するに、

五六七の大神=ミロクの大神=撞の大神=カオス

六六六の大神=大国治立尊=天帝ウラノス

艮の金神=国常立尊=ルシファー=サナートクマラ

なお、神、尊、命の違い。

霊界物語第10巻30章言霊解四では古事記について次のように書かれています。

古典は霊を称して神といひ、体を称して命といふ。
神とは幽体、隠身、すなはちカミであって、
命は体異、体別、すなはち身殊の意味である。後世の古学を研究するもの、
無智蒙昧にして古義を知らずに神と命とを混用し、
幽顕を同称するがゆえに古典の真義はいつまで研究しても、分って来ないのであります。

この文章は古典=古事記について触れたものですが、
『大本70年史』に、
「“尊”と“命”の違いは、“尊”は幽体で活動し、
 “命”は実体を持って活動している」というように書かれています。


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