ARIONフォーラム・4 

<怒濤の二朝時代>

  継体天皇の即位以降、神武天皇即位から考元天皇擁立クーデター、応神天皇擁立
 など、紆余曲折を経た日向族と出雲族の合体王朝はここに決裂し、二朝並立時代が
 始まる。

●王権祭祇(大化の改新以前)

      大忌(出雲系)………春日臣・多臣  *スサノオを祀る。

      小忌(日向系)………忌部・中臣   *アマテラスを祀る。

 注)「大忌」…王権祭祇の長たる立場にあって神事を進行する氏族。
   「小忌」…王権祭祇の神事の細部に与かる(アシスタント役)氏族。

  日向族(天智天皇)によるクーデター「大化の改新」によって、藤原氏の先祖で
 ある中臣氏は、王権祭祇の中枢を巡って、出雲系の春日臣や多臣、日向系の忌部臣
 などを次々に抑え、のし上がった。この状態は、出雲族の重臣であった尾張氏や出
 雲族の経済的生命線でもある瀬戸内海~中国の貿易圏を握っていた宗像族の強力な
 後ろ楯による、天武天皇の「壬申の乱」政権奪還によって、元の状態に戻る。

  天武天皇は、両部族の合体を図り抗争に終止符を打つ為に、日向族出身の持統を
 皇后に迎えるが、天武天皇崩御後の持統天皇の一方的即位や出雲重臣暗殺や呪殺に
 よって、再び中臣氏が王権祭祇の主導権を握ることとなった。

  まず、実姉を愛した天武天皇に寵愛を受けなかったことへの持統の妬み。そして、
 若き日に歴史家のもとで学び、出雲族が支配する王権祭祇の氏姓制度の中では自分
 の一族の出世は望めず、それを拒む根拠が宮中に保存される皇史や各氏族の系図に
 あることを知って挫折感を味わった藤原不比等の野望。天武天皇というカリスマを
 失った出雲族の落日の中で、二人の野心は激しく交差した。

  やがて、藤原不比等によって持統天皇は日向族のシンボル、アマテラスの再来と
 して祭り上げられ、日向系呪術に長けた一族、中臣氏の代表であった藤原不比等は、
 あたかもアマテラスの弟の霊が乗り移ったかの如く権力掌握に成功した。彼らがア
 マテラスの弟の霊を利用したのか、アマテラスの弟の霊が彼らを利用したのかは定
 かではないが、徹底した史書の改竄や各氏族の系図の没収を行使し、日本史を過去
 から未来に至るまで日向族中心の歴史にすげ変えてしまったのである。

  日向族の出雲族への支配は政治舞台だけでなく、王権祭祇に於いても同時進行し、
 出雲系呪術に対抗しうる傀儡として、大陸から召喚され教育された生え抜きの陰陽
 師たちが藤原不比等のもとで暗躍した。

●王権祭祇の変遷

☆第一段階:神武即位……大忌(出雲系)が小忌(日向系)を支配した主従関係状態。

☆第二段階:大化の改新…小忌(日向系)が大忌(出雲系)を支配し立場が逆転。

☆第三段階:壬申の乱……大忌(出雲系)が小忌(日向系)を支配し当初の状態へ。

☆第四段階:持統即位……小忌(日向系)が大忌(出雲系)を支配し再び立場が逆転。

☆第五段階:不比等登場…小忌(日向系)内部で中臣氏が忌部氏を抑え神祇伯となる。

            他の氏族を王権祭祇から追放し卜部氏や荒木田氏を従えた。


つづく。


00236/00238 GFB00026 一輝 蘇れ神よ!蘇れ民よ!<2>
(12) 94/05/21 03:33 00235へのコメント コメント数:1

<日向族の大化の改新に対する出雲族の反撃だった壬申の乱>

  二朝並立時代の出雲族氏族と日向系氏族の主な面々は、壬申の乱に於ける両軍の
 武将たちを調べてみればわかる。

●純粋な近江朝(日向王朝・弘文天皇)方の者

 書直薬     智尊    *穂積臣百足  犬養連五十男 忍坂直大摩呂
 谷直塩手    佐伯連男   壹岐史韓国  樟使主磐手  盧井造鯨
 大野君果安   中臣連金   田辺小隅   山部王    坂合部連薬
 秦友足     社部臣大口  土師連千嶋

●吉野側に寝返った近江朝(日向王朝・弘文天皇)方の者

 高坂王   *穂積臣五百枝 *物部首日向 *羽田公人国 *羽田公大人 稚狭王

●吉野側に心を寄せていた近江朝(日向王朝・弘文天皇)方の者

*蘇我臣安麻呂 *蘇我臣果安 *巨勢臣比等

●乱後、許されるか減刑された近江朝(日向王朝・弘文天皇)方の者

*物部連麻呂  *蘇我臣赤兄

注)出雲族出身でありながら、穂積臣百足が近江朝方として最後まで参陣しているが、
  このお蔭で後に、『日本書紀』から穂積氏と雀部氏が首謀した、考元天皇擁立ク
  ーデターの歴史的事実が削除されることになるのである。このクーデターの内情
  は、未だに明らかにされていないが、後に出雲族内部で評価されなかった為、穂
  積氏は不当な扱いを受けていたのか、同じく出雲系氏族と敵対していた近江朝(
  日向王朝)と何らかの利害の一致があったように考えられる。

◆乱の最初から最後まで吉野(出雲王朝・天武天皇)方の者

 大伴連吹負    大伴連馬来田   書首根麻呂  大伴連御行   栗隈王
 美濃王      小子部連鈷鈎   三野王    秦造綱手    忌部首子首
*村国連男衣    土師連真敷   *物部連雄君 *稚桜部五百瀬 *三輪君子首
*三輪君高知麻呂 *田中臣足麻呂  *当麻公広嶋 *鴨君蝦夷   *紀臣阿閇麿
*坂本臣財    *坂田公雷    *紀臣堅麻呂 *星川臣麻呂  *尾張宿禰大
隅*膳臣麿漏    *当麻公広麻呂  *尾張連馬身 *布勢麻臣御主人

注)*印は、出雲系氏族。
  よく見ると、多くの武将が吉野(出雲王朝)方に心を寄せていたことがわかる。
  近江朝(日向王朝)方の名門氏族の中で最後まで吉野(出雲王朝)方に抗戦した
  のは、中臣連金と穂積臣百足だけだった。ところが吉野(出雲王朝)方の英雄、
  天武天皇が崩御し、持統天皇が即位すると、たちまちこれら出雲系氏族は失脚し、
  一部を除いて政府内から追放・粛清されることになる。


 以下、左側は日向族による「日本書紀」に基づいて書かれた皇統譜。
 右側が私の推理する日向族と出雲族の二朝皇統譜。

〔日本書紀皇統譜〕        〔日向王朝〕 × 〔出雲王朝〕

NO.26 継体天皇         欽明天皇     継体天皇
      |            |        |
NO.27   安閑天皇          |       安閑天皇
      |            |        |
NO.28   宣化天皇          |       宣化天皇
      |            |        |
NO.29   欽明天皇          |        |
      |            |        |
NO.30   敏逹天皇         崇峻天皇     敏逹天皇
      |            |        |
NO.31   用明天皇          |       用明天皇
      |            |        |
NO.32   崇峻天皇          |        |
      |            |        |
NO.33   推古天皇         舍明天皇     推古天皇
      |            |        |
NO.34   舍明天皇          | 大化の改新(聖徳太子+蘇我入鹿)暗殺
      |            |        |
NO.35 皇極天皇         皇極(斉明)天皇  |
      |            |        |
NO.36   孝徳天皇          |       孝徳天皇
      |            |        |
NO.37   斉明(皇極)天皇      |        |
      |            |        |
NO.38   天智天皇         天智天皇      |
      |            |        |
NO.39   弘文天皇    壬申の乱(弘文天皇)討伐   |
      |                     |
NO.40   天武天皇        <両朝合体>    天武天皇
      |                     |
NO.41   持統天皇         持統天皇     高市皇子(天皇?)粛清
      |            |        |
NO.42   文武天皇         文武天皇      |
      |            |        |
NO.43   元明天皇         元明天皇      |
      |            |        |
NO.44   聖武天皇         聖武天皇     長屋王自刃
      |            |
NO.45   考謙天皇         考謙天皇    <出雲朝断絶>


  皇室が日向族一色になってゆくと、罪悪感が実体化してゆくプロセスを見せるか
 のように、やがて宮廷は出雲族の怨霊ノイローゼに陥り、国家や皇室に起こる凶事
 の全てを出雲族の怨念によるものとする風潮が、宮廷から民衆へと流布され、呪術
 師による多くの霊的封印や呪詛戦略が執り行われるようになった。

  聖武天皇の殺牛祭の禁令、桓武天皇の殺牛祭および北辰祭の禁令である。これら
 は、いずれも出雲系王権の伝統的な祭りで、天武天皇の頃には全国規模で盛んにな
 ったものである。しかし、その後も祭りは密かに行われ、発覚すれば禁令、禁令の
 ほとぼりが覚めたら復活、を繰り返し、時代を経て様々な祭祀へと変容していった。

  殺牛祭は、出雲族の歴史的シンボルである牛を祀り豊作を祈る祭りだが、同時に
 一族の英雄スサノオを祀る祝祭でもあった。後には、雨乞いの秘儀として民衆へ定
 着する。厳しい官吏の目をごまかすために、生贄の牛を馬に変える地方もあった。

  北辰祭は、北斗七星にとりまかれた北極星を天皇の出自としたポラリス信仰であ
 るが、後に桓武天皇は民衆へは禁令を施行しておきながら、宮廷では独自の秘儀と
 して執り行っていたのである。この北極星はAMA族の系譜を語る上で、追々重要
 なキーワードとなるので留意されたい。

  殺牛祭は蘇民祭と名を変え民衆の中に溶け込み、日向族一色の宮廷から公布され
 た偽史が正史として報じられる一方、出雲族の輝かしい歴史や皇室祭祀から締め出
 された出雲族伝承は、民話や伝説や童謡として人々の記憶におぼろげながら残るこ
 とになったのである。

  その中で、最も広く知れ渡った重要なものを取り上げてみよう。


  つづく。


00237/00238 GFB00026 一輝 蘇れ神よ!蘇れ民よ!<3>
(12) 94/05/21 03:36 00236へのコメント コメント数:1

<蘇民将来伝説と日本の呪術・1>

  蘇民祭の「蘇」とは、牛の乳を煮たものである。「蘇民」とは、牛を崇めていた
 一族であることは、以前「牛の一族」で述べた通りである。出雲系AMA族は「蘇
 民」と名を変えて民衆の中に溶け込んでいったのだ。

  日本の呪術の中で、最も民衆にポピュラーだったのが「蘇民将来」だ。「蘇民将
 来」はスサノオ伝説に基づく魔除けの御札として、正月の縁起物になったり、郷土
 玩具や信仰玩具として知られている。今でこそ忘れ去られているが、地方によって
 は、各家々の門戸などに「蘇民将来子孫也」の御札が貼られ、日本で最もポピュラ
 ーな呪術として知られていた。

  黙示録的な解釈も可能な四文字「蘇民将来」。
  「蘇民将来」とは、いったや俺か。
  それでは、まず古文書から紹介してみよう。


◆蘇民将来伝説『ほき内伝・巻一』

  「牛頭天王が南海におもむく途中、南天竺のかたわらに夜叉国(広達国)と
   う国があり、そこの鬼王を巨旦大王といったが、この巨旦が天王の通行を
   妨害した。そこで天王は千里の松園の林のなかに隠れていると、そこに一
   人の賤女がいたので、しばらく滞留を乞うたところ、このさき東の方一理
   ほどのところに蘇民将来という慈悲深い者がいると教えられ、行ってみる
   と、高齢の老翁が藁ぐつをはき、藁屋のなかのちりを柴の木ではたいてい
   た。一夜の宿を乞うと、貧賤で家が狭いのを理由にいったんは固辞したが、
   やがて招じ入れ、梁や粟の莖で席をこしらえ、瓢中にあったなけなしの粟
   米を煮て歓待した。天王はその厚い志をよろこび、身は孤独でも、心が豊
   かでけだかいことを賞賛した。やがて天王は、さきに恚怒弾呵せしめた巨
   旦大王を全滅させた。そのおり親切にした巨旦のところの賤女を助けるた
   めに、桃木の札をけずって『急急如律令』という呪文を書写して弾指せし
   め、これを彼女の袂のなかに収めて禍災をのがれさせたのち、巨旦の死骸
   を切断して五節に配当し、調伏の威儀を行った。その後蘇民将来のところ
   にいたり、長者にさせ、誓願してわが末代は行疫の神となるも、汝の子孫
   なりといえば危害はないと教え、二六の秘文をさずけた。さらに五節の祭
   礼を違わざれといった。それは正月一日に赤白の餅を鏡にするのは巨旦の
   骨肉、三月三日の蓬莱の草餅は巨旦の皮膚、五月五日の菖蒲結びと粽は巨
   旦の鬢髪、七月七日の小麦の索麺は巨旦の継、九月九日の黄菊の酒水は巨
   旦の血脈という。そして長保元年(九九九)六月一日に祇園精舎で三十日
   間巨旦を調伏して以来、いまの世にいたるまでこの威儀を学ぶ」


◆蘇民将来『因縁集』

  「牛頭天皇、巨旦大王をほろぼして後、蘇民将来に告げて曰く、我、未来に
   疫神と成りて、八王子並びに八万四千六百五十四人の供奉の輩を眷属の神
   として諸国に遣わし、慳貪邪見の衆生を悩ますべし。我に恩あり、縁深き
   子孫をば病難をのがすべし。その誌には、桃の木に札を作り、『急々如律
   令』と書きて門戸に押すべしと。或いは『蘇民将来の子孫の門戸』と札に
   書きて押すところには、悪神おそれて家に入らずと云々」


◆蘇民将来『備後国風土記』

  「むかし北海の武塔(むたふ)の神が南海のむすめに求婚するために出かけ
   たが、日が暮れてしまった。そこに将来が二人いた。兄の蘇民将来はたい
   へん貧しく、弟の将来は富んで屋倉が百もあった。そこで武塔の神は弟の
   方に宿を借りようとしたが、物惜しみしてことわり、兄の蘇民将来はここ
   ろよく迎え入れ、貧しいために粟の茎の藁をしいて座とし、粟飯などを饗
   応した。やがて宿り終えて出立したのち、何年かたってふたたび八柱の神
   子をつれて立ち寄り、詔りてたまわく、『わたしは将来の恩に報いをしよ
   う。汝の子孫は家にいるか』とたずねた。蘇民将来は『じぶんの女と妻が
   おります』と答えると、『それでは茅の輪を腰の上につけさせよ』と仰せ
   られた。そこで詔のとおりにつけさせたところ、その夜に蘇民のむすめを
   一人を残して、あとの茅の輪をつけないものはことごとく殺してしまった。
   そして『われはハヤスサノヲの神である。もしものちの世に疫病が流行っ
   たら、汝は蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰につけている人は災厄
   をのがれることができよう』と仰せになった」

   注)「将来が二人」というのは、後の書では蘇民将来と巨旦将来としている。


 つづく。


00238/00238 GFB00026 一輝 蘇れ神よ!蘇れ民よ!<4>
(12) 94/05/21 03:40 00237へのコメント

<蘇民将来伝説と日本の呪術・2>

 日本の呪術を中心に話を進めてゆくと、それだけで膨大な分量を費やすので、こ
 こでまずは、時代を追って蘇民将来の謎を中心に話を進めてみよう。

 1.日向族が日本に到来した弥生時代、既に日本で文化を育んでいた大和族や縄文
   族長グループと、厳しい血統保存主義だった日向族は、うまくそりが合わなか
   ったため、日向族の東進は淡路島以西にとどまっていた。そのため当初の使命
   であったAMA族の先鋒部隊として後続の出雲族と大和族や縄文族長グループ
   との間を取り持つことができなかった。この理由のひとつとして、日向族に有
   能なカリスマがいないために、小国に別れてしまい内部統一を図れなかったこ
   とが考えられる。

 2.出雲族が日向族の後に日本へやって来て、大和族、縄文族長グループと親交を
   深める。人数こそ日向族の1/3だったが、出雲族は少数精鋭で強く、AMA
   族のスメラ(皇)の証が約束されていた十種の神宝を所持しており、日向族は
   出雲族族長であったスサノオの傘下に下るしかすべはなかった。しかし内部で
   は、先に日本へ到達したことへの日向族の出雲族への優位性を主張する動きが
   あった。

 3.出雲族族長スサノオは、出雲族と日向族を統一するために、日向族族長の娘ア
   マテラスとの婚姻を申し出た。このときアマテラスの弟は婚姻に反対し、呪詛
   戦略を取り、各地の霊的磁場の封印を始めることで、スサノオの動きを封じよ
   うと画策する。彼の行動はアマノジャク伝説として現在でも残っている。その
   行動範囲は、アマノジャク伝説の分布と重なり、瀬戸内海を中心に西へ進み、
   紀州あたりまで広がっている。大和族のシンボルであった銅鐸を破壊し、呪術
   をかけながら進んで行ったため、住民はアマテラスの弟の呪術に狙われること
   を恐れ、前もって銅鐸を破壊し、土中に埋めて隠すこともあった。

 4.スサノオは、呪術師であったアマテラスの弟を討伐する。呪術師の処刑は、二
   度と霊力を跋扈させないため、一見残忍とも思えるような手段で行われた。例
   えば、山口県土井ケ浜遺跡での出雲族は、結果的に集団に何らかの不幸をもた
   らしてしまった呪術師に対して、首をはね別の場所に遺棄し、全身に十五本の
   矢を射ることで、責任を取らせていた。討伐の場所は、北九州~瀬戸内海~熊
   野周辺ではないかと思われる。

 5.後世に崇神天皇が冷害飢饉を鎮めようと、スサノオの子ニギハヤヒを厚く祀る
   だけではなく、アマテラスをも祀ろうとするが、近畿地方ではアマテラス姉弟
   の呪術の恐怖が語り継がれており、住民の反対にあって、何度も移動を余儀な
   くされ、現在の伊勢神宮に落ちつくまで約20年もかかってしまった。もちろ
   ん伊勢地方でもすんなりとうまく事が運んだわけではなかった。アマテラスと
   友好な関係を保持していた出雲族の重臣サルタヒコの子孫が迎え入れることで
   初めて落ち着いたのだった。一方、出雲族呪術による日向族呪術の封じ込めが
   民衆の間で行われた。

 6.日向系の持統天皇の時代に入り、藤原不比等との共闘関係によって、出雲族は
   政治の舞台から本格的に追われるようになる。今度は、天災の原因をスサノオ
   を始めとする出雲族の英雄たちに求めるようになるが、出雲族の子孫にはその
   影響が及ばないと伝えられる。


  以上は、先に上げた蘇民将来伝説の研究から解読したものである。もう少し整理
 してみよう。

 A:まず、伊勢にアマテラスが初めて祀られたとき、伊勢の住民にアマテラス一派
   の祟りを恐れさせぬために、古くからある出雲族呪術の流布に呼応して作られ
   たのが、「蘇民将来子孫也」の護符と蘇民将来の物語。
                               →『ほき内伝』


 B:やがて、日向族が権力を掌握した持統天皇即位以降、スサノオを始めとする出
   雲族の祟りを恐れさせぬための、「蘇民将来子孫也」の護符と蘇民将来の物語
   へと変容する。
                             →『備後国風土記』


●『ほき内伝』   巨旦大王(アマテラス一派の祟り) ┓ 近畿住民

●『備後国風土記』 牛頭大王(スサノオ一派の祟り)  ┓ 巨旦将来


 「牛頭大王」=スサノオ     「巨旦大王」=アマテラスの弟
 「蘇民」=出雲系住民      「将来」=AMA族
 「蘇民将来」=出雲系AMA族  「巨旦将来」=日向系AMA族

  重要なことは、「蘇民」である限り、祟りを防ぐことが可能であることだ。

  またこの「蘇民将来子孫也」の護符の裏には、特筆すべきものが描かれている。
 それは、ダビデの星(☆)とタテ四本・ヨコ四本がクロスする罫線だ。ダビデの星
 は、ソロモンの星と並んで東北地方や沖縄地方でも魔除けのために使われてきた。
 しかし、そもそもは全国各地で行われていた祓いの呪術であり、様々な場所に描か
 れたものである。時には額にも描かれた。沖永良部島に於いては、これを「アマム
 (Amamu)」と呼ぶ。いずれも、中東滞在時代のAMA族の記憶を示している。

  ダビデの星(☆)やソロモンの星以外には、「●」「○」「×」「+」「卍」「
 #」「*」「一」「大(京都の大文字焼にも留意されたし)」「犬」などが祓いの
 呪術に使われた。いずれも出雲族が日本各地に広めた祓いの呪術なのである。

  また、これらの記号は着物の文様にも盛んに使用されていた。ここで思い出すの
 が、バリ島テンガナン村で製造される縦横絣である。日本の「蘇民将来子孫也」の
 裏に描かれたタテ四本・ヨコ四本がクロスする罫線と、バリ島の縦横絣には、同じ
 魔除けのAMA族呪術が込められていたのだ。


  「自己中心的に事を成そうとするものには災いが訪れるが、自分以外の者を活か
 そうと努力する者は、必ずや報われるであろう」という訓話が、蘇民将来伝説の根
 底にあるものである。自分のことばかり考えている人間には、ある時は悪霊が、あ
 る時はスサノオ自身が、懲罰に訪れるという。いま私たち日本人の中で、どれくら
 いの人間が果して蘇民将来なのだろうか。



  蘇民将来。
  いつの日(将来)か、牛の一族(民)は目を覚ます(蘇)。
  いま、民は蘇る。いま、神は蘇る。
  死返玉。



  了。

                                    一輝

評価していただけるなら拍手の方をお願いします。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ

にほんブログ

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://seisinnnoyakata.blog102.fc2.com/tb.php/904-e6e09338